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長野荘(中世) 平安末期~戦国期に見える荘園名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
長野荘(中世) 鎌倉期から見える荘園名石見国美濃【みの】郡のうちその一部は吉賀【よしか】郡にも広がっていた永野荘とも書く現在の益田【ますだ】市の西半部に相当する地域建仁3年12月の「藤原(益田)兼季申文案」(益田家文書/鎌遺1418)に「長野庄内 飯田郷,得屋郷,安富郷已上参箇所」とみえるのが初見貞応2年3月の「石見国田数注文」(益田家文書/鎌遺3080)には美濃郡荘領の項に「なかの(の脱カ)しやう 百八十八町五反百七十歩」とあり,その内訳は豊田(吉賀郡内)18町4反150歩・飯田郷39町4反小・安富【やすとみ】12町2反小・得屋【とくや】20町2反小・角井8丁5反半・吉田50町5反60歩・高津11町8反・白上9町8反・美濃地【みのじ】黒谷11町半・市原6町4反小(鎌倉遺文は,「いい田の郷」を「いく田の郷」,「つの井」を「つのみ」,「しらかミ」を「したかミ」,「いちわら」を「いちわう」と誤っている)であった豊田・安富・角井・高津・飯田は高津川中・下流域両岸の平野部,得屋郷は高津川の右岸角井川上流地域,美濃地黒谷は高津川の左岸白上川の上流地域にあたる南北朝期の長野荘惣政所職は虫追氏の所有するところであり(建武4年5月日付虫追政国軍忠状/益什82),また豊田郷および美濃地黒谷郷が新補地頭内田氏,白上郷が周布氏の支配下に置かれるなど,戦国期以前における益田氏の長野荘支配はきわめて不安定で部分的なものにすぎなかった益田氏(本宗家)による長野荘の一円支配が確立されるのは文明6年7月28日以降のことであって,これと時期を同じくして長野荘の再編成が行われ,戦国期にいう「長野荘七郷」が成立する(足利義政御教書/益什14)長野荘七郷とは,高津・須子・角井(戦国末期まで周布氏の支配下にあった),吉田・安富・豊田・小坂方市原計7郷(豊田の中に横田・俣賀・梅月を含める)をいい,文明6年「足利義政御教書」はその各地頭領家職と得屋領家職および上黒谷・美濃地地頭領家職を益田本宗家に安堵したのである天文15年12月26日付「益田尹兼譲状」(益什28)によると,新しく得屋地頭職・下黒谷地頭領家職・白上地頭領家職が長野荘内の益田氏所領として追加されている... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」